「死」が「生」を教えてくれる〜大学生が「死」について本気出して考えてみた

「死」は恐ろしく、尊くもあります。僕も、小学生の頃は死後の恐怖を想像し、怯えた記憶もあります。一方で、この世を去った友人や親戚が「生きる希望」を教えてくれたのも「死」だったのです。恐怖と希望、背反する2つを与える「死」とは何なのでしょうか。
 

 

死が覆い隠される時代に生きる僕たち

姜尚中氏の著書『』を読みました。本に登場する青年が被災地に赴き、遺体の引き上げボランティアをしていました。青年がつらいボランティア経験を書いた手紙に対する返信に、「なるほど」と思わずうならされました。
 

五千人の死と、五千一人の死はたった一人の違いかもしれませんが、両者の間には雲泥の違いがあります。
(中略)
わたしたちはテレビ画面で何度も何度もいやというほど荒々しく牙をむく津波の映像を見せられながら、じつは一人ひとりの死の重さとは向きあっていませんでした。奇妙なことに、死者や行方不明者の数が増えるほどに、わたしたちの完成は逆に麻痺して、死のリアルから遠ざかっていったように思います。
(中略)
わたしたちの社会では死はすぐに覆い隠されるのです。でもわたしはときには現実を見る必要があると思います。ときによっては君が見たような腐ってちぎれた遺体を見、それを悼み、恐怖し、様々なことを考える必要があると思います。

確かに、3.11に発生した震災では多くの人たちの命が失われました。一方、離れたところにすむ僕たちは、他人ごとのように考えていました。ただただ、死者・行方不明者数のカウントをが増えるのを眺めていました。死を恐れ、見ないようにしていたのかもしれません。そんな自分に対して、腹がたちました。
 
ニュースで殺人事件が報道されても、関心は死者に向くことはありません。なぜ犯行におよんだか、加害者の動機に興味を持ってしまいます。メディアの操作だけではなく、僕らの関心が向いていないことも要因です。
 

「死」と接すれば「生」の尊さがわかる

人は「死」をおそれます。ではなぜ、「死」と向きあう必要があるのでしょうか。理由を考える上で、ボランティアに参加した青年の言葉が心に響いたので紹介します。
 

生きることと死ぬことって、たぶん白か黒かの選択じゃないんです。僕の先生が言ったように、死は生の中に、生は死の中にお互い含まれあっているんです。
(中略)
けがれた黒を含むことで、白が際立って輝く。自然の中に、すでに不自然が含まれているんです。間違いも含んでいるからこそ、正しいことをだいじにしたくなるんです。

 

いのちは生まれることでスタートします。道のりはさまざまですが、誰もが正しく生きられるわけではありません。ときには間違いをおかしてしまうでしょう。逆説的ですが、間違いがあるからこそ正解があるのです。白と黒が区別できるから、白と黒の違いがわかるのです。
 

正義があるから悪がある。闇があるから光がある。誰もが正しい選択をしていたら、間違いは存在しません。間違いが存在しなければ正解もありません。「生」から始まり、「死」で終わる、だからこそ、「生」が輝くのです。逆に、「生」が輝けば、ある意味では「死」も輝くのかもしれません。「生」と「死」は互いに含みあった関係なのです。

 

「死」を受け止め、過去である「生」を輝かせる

つまり、「死」と向きあうことは「生」をみつめることにつながるのです。始まった命を、きちんと終わらせることで、ようやく「生」が過去となり、人々の胸に刻まれるのだと思います。死者が人々の心のなかで生き続けるには、人々が「死」を受け止めることからはじまるのです。
 

逆をかえせば、「死」から目を背けることは、生きてきた証である「過去」を消してしまうのです。死者の過去について、何が正しいか、何が間違いなのかはわかりません。ですが、清濁併せ呑み、あるがままを受け止めてみましょう。そうすることで、「生」が輝きはじめるのです。

 

「死」と向きあった先にあった希望

「生」と「死」はそれぞれの人生で完結されます。しかし、他者の「死」と向き合うことが自分自身の「生」をより輝かせてくれるのです。
 

亡くなった方に接すれば接するほど、生きることの大事さ、自分が生きていることの尊さ、ありがたさが身にしみて感じられてくるんです。生きててよかった、せっかく命があるんだからちゃんと生きなくちゃいけない、生を無駄にしちゃいけないという気持ちが沸き起こってくるんです。

 

遺体引き上げのボランティアを通して沢山の「死」を感じてきた青年のことばだからこそ重みがあります。ですが、青年の感覚はステキだと思いました。他人の人生を自分の糧にしているのです。生きていた意味、死んだ意味、ハッキリとはわかりませんが、青年の生きる希望に変わったのは確かです。
 

青年の言葉はさらに続きます。

僕は生きている、なんてうれしいことだろう、なんて素晴らしいことだろうって思います。これはきっと亡くなった方から力をもらっているのです。生と死がつながっているとはそういうことだと思います。それがわかったときから、自分のやっていることは、亡くなった方から思いをもらって、生きる力に生かすことなんだと思うようになりました。そして、それは僕だけのためではなく、亡くなった方のためであるとわかりました。僕が『生きる力』をもらえが、その方の『死』も輝く。その方の死が輝くような『永遠』になるのだって。

僕は、「生」と「死」の本質のように思えました。人の命は決して永遠ではありません。いつかは尽きてしまうのです。ですが、「死」を迎えた瞬間、人の「生」は過去として永遠になりうるのです。
 

今まで生きてきた人たちの「死」が僕たちに大きなエネルギーを与えてくれているのです。しかし、それは自動で発生するやりとりではありませんでした。僕たちが、「死」を受け止めることで初めて、僕たちにプラスの影響が起こるのです。
 

「死」と「生」を輝かせるのは「死」と向きあった人 の使命

「死」があるからこそ「生」があり、「死」が受け止められることで「生」が輝くことを紹介しました。そして、僕たちに生きる希望を教えてくれたのも「死」でした。
 

意味のある「生」や、意味のある「死」はよくわかりません。ですが、たった1つ言えることがあります。それは、「生」と「死」に意味をもたせることができるのは、生きている僕たちだけなのです。僕たちが、あるがままのすべてを受け止められれば、人々の「生」と「死」は永遠となるのです。