岡本太郎さんの斬新過ぎる芸術論に度肝を抜かれた。|今日の芸術

太陽の塔などの作品で有名な岡本太郎さん。初めて、彼の考え方を読みました。20世紀に書かれた本とは思えないほど、斬新なアイディアで、目からうろこがこぼれ落ちました。

 

僕は、和太鼓や胡弓を通して、日本文化・芸術への興味をもちました。なんとなく「閉鎖的だなぁ」と思う芸能には惹かれませんでしたので、岡本太郎さんの考え方はスゴく好きです。

 

 

以下、読書メモ。めっちゃ多くなってしまいました。

・べつだん「芸術」がなくても、またそんなものに無知でも、毎日の暮らしに事欠くわけではないし、けっこう楽しく生活できる。

・すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない、そのよろこびが芸術であり、表現されたものが芸術なのです。

・このように社会の発達とともに、人間一人一人の働きが部品化され、目的、全体性を見失ってくる、人間の本来的な生活から、自分が遠ざけられ、自覚さえ失っている。それが、自己疎外です。

・だれでも、子どものときには、人生ってもっとすばらしいものだと思っている。大きくなったら、と夢想していた。にもかかわらず―毎日毎日の生き方がなにかほんとうではない、こんなものではないはずだ、とあせります。

・芸術はすべての人間の生まれながらもっている情熱であり、欲求であって、ただそれが幾重にも、厚く目かくしされているだけなのです。

・日本文化にとって、フシ穴、破れ目こそ運命的だというわけです。

・いかに泥くさくても、みにくくても、自分自身の生活の土台から、すべてをつかみとり、推しすすめていくべきです。

・直接的な感動をうけとればよいのです。あらゆる偏見を捨てさって、あなた自信がすきか、きらいか、深くひきつけられるかどうかが問題です。

・超現実主義は理性、道徳、美などという、人間生活の上っかわにあって、時代と場所によってつねに移りかわったり、規準を失うようなものを徹底的に疑い、人間性の奥底にひそんでいる本質をえぐり出そうとしました。

・若さというのは、その人の青春にたいする決意できまります。いつも自分自身を脱皮し、固定しない人こそ、つねに青春をたもっているのです。

・芸術の形式には、こうなければならないという、固定した約束はないのです。時代時代、瞬間瞬間につねに新鮮な表現をつくっていくのです。

・流行をつねにのりこえて、もっと新しいものを作るという意味で、移りかわるというのならよいのですが、どうせ移っていくものだからとバカにして、否定的に、歴史をあとにひきもどすような、つまらぬことばかり言うのは卑劣です。

・真の芸術が、今までなかった、まったく新しいものをつくりだして、時代をひきずっていく。それに、みんながひきつけられ、型としてまねしはじめるから、いわゆる”流行”という現象がおこるのです。この流行の「創造」と「模倣」の二つの要素が、時代をすすめているのです。だから芸術の新しさを「あれは、たんなる流行だ。うわついた思いつきだ」といって敬遠することはまちがいであり、時代おくれになることです。

・何が日本的であるかないかという、非科学的な、つまらぬ迷言にひっかかっているよりも、どんどん積極的に、近代的な材料をこなして、世界の文化を前進させるべきです。

・モダーンだから西洋のまねだと、バカの一つおぼえのようにきめこんでいるのは、まったくナンセンスだということがわかると思います。とかく安心してみとめている古風な形式のほうこそ、屈辱的な西洋のまねごとであり、新しいものは逆に外国の模倣ではないのです。

・世界全体が同質的な生活感情のうえに立ってきているということを知らなければなりません。

・ほんとうの芸術は、時代の要求にマッチした流行の要素をもっていると同時に、じつは流行をつきぬけ、流行の外に出るものです。しかも、それがまた新しい流行をつくっていくわけで、じっさいに流行を根源的に動かしていくのです。

・たやすく許されないような表現のなかにこそ、ほんとうの新鮮さがあるのです。

・まことに芸術はいつでもゆきづまっている。ゆきづまっているからこそ、ひらける。そして逆に、ひらけたと思うときにまたゆきづまっているのです。そういう危機に芸術の表情がある。

・今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。

・創作者とほとんど同じ緊張感、覚悟をもって、逆にこちらも、向こうをのり越えていくという気持でぶつからないかぎり、ほんとうの芸術は理解できないものです。つまり、見るほうでも創造する心組みでぶつかっていくのです。

・美しいということは、厳密に言って、きれい、きたないという分類にはいらない。もっと深い意味をふくんでいるわけです。

・見わたすと、ただちにピンとくる厳粛な事実なのですが、いつの時代でも、ほんとうにすぐれたものは、けっして「うまい」という作品ではありません。むしろ、技術的には巧みさが見えない、壊れたところのあるような作品のほうが、ジカに、純粋に心を打ってくるものを持っています。

・見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心のなかで描き上げられたことになります。さらにそれは、心のなかでその精神の力によってつねに変貌し創られつつあるのです。

・すぐれた作品に身も魂もぶつけて、ほんとうに感動したならば、その瞬間から、あなたの見る世界は、色、形を変える。生活が生きがいとなり、今まで見ることのなかった、今まで知ることもなかった姿を発見するでしょう。そこですでに、あなたは、あなた自身を創造しているのです。

・つまり芸術の問題を、その価値そのものではなくて、権力とか、それにつきまとった社交的なものの価値にかえてしまっているのです。

・こんにちに芸術革命の根本的な意味は、たんに画面上にではなく、じつはもっと広い、根ぶかい、社会的土台の上にあるのです。そしてそれが今日の現実にどのようにはたらきかけているか、そのありかたがたいせつです。つまり今お話しした、芸術が特殊技能をもつ名人にしかできないものではなくなって、だれでもが作れる、ほんとうに幅ひろい、自由なものに変わってきた、その点にこそ革命の実体があるのです。

・「なぜ、あなたがたはうまく描こうとするんですか。ぜったいに、あなたたちがうまく描けるはずはないんだ。大衆雑誌の挿絵ほどにもうまくは描けないんですよ。チョンマゲ侍が、まっこう唐竹割り―血しぶきをあげてひっくりかえるところ、なんていう絵だって、けっこうむずかしい。しかし、僕みたいな絵なら、もののニ、三日も油絵の具の溶き方や線のひき方ぐらいを覚えれば、すぐに描けるんで、あとはもし、あなたに才能があり、さらに僕よりも自由な精神をもっているのだったら、岡本太郎なんかをしのぐことはわけないんです。うまく描く必要なんかみじんもありません。かまわないから、どんどん下手に描きなさい」と言います。

・でたらめに描くということになると、(中略)ほんとうの自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものにたよるのではなく、引き出してこなければならないものは、じつは、自分自身の精神そのものなのです。そこが芸術の根本

・うまかったり、まずかったり、きれいだったり、きたなかったりする、ということに対して、絶対にうぬぼれたり、また恥じたりすることはありません。

・うまいということはかならず「何かにたいして」であり、したがって、それにひっかかることです。すでにお話したように、芸術形式に絶対的な基準というものはありません。うまく描くということは、よく考えてみると、基準を求めていることです。かならずなんらかのまねになるのです。だからけっして、芸術の絶対条件である、のびのびとした自由感は生まれてきません。それなら描く意味はないのです。

・芸術なんてなんでもないつまり、さきほども言ったように、道を歩いているとき、ときどき「ワッ」と大声で叫びたくなり、駆けだしたくなる衝動と同じような、単純なことだと思ってよいのです。

・表現欲というのは一種の生命力で、思いのほかに激しいものです。このことは、子どものばあいなどを見ると、ひじょうによくわかります。

・人間性は教わるという受け身な、消極性だけでおわってはならないはずです。今日までの、いつも教わるだけの屈辱的な教育法は、おとなになったのちにも、一生抜けきらない卑屈さを作りあげてしまいます。

・自分自身の喜びや確信から出発しないで、便利な型やポーズだけを利用する習慣を身につけてしまうと、おとなになってからも、ほんとうにおもっていることを発表することは、世渡りに都合がわるいから、そっちのけにしてしまいます。そして世間の通り相場だけを使いわける、不明朗でけちくさい人間になってしまうのです。

・子どもの自由は、このように戦いをへて、苦しみ、傷つき、その結果、獲得した自由ではないからです。当然無自覚であり、さらにそれは許された自由、許されているあいだだけの自由です。だから、力はない。ほほえましく、楽しくても、無内容です。

・すぐれた芸術家の中にある爆発する自由感は、芸術家が心身の全エネルギーをもって社会と対決し、戦いによって獲得する。

・「よきを取り、悪しきを捨てる」という、小ざかしい迷文句があります。これは論理的にいってまちがいです。都合のよいところだけを取るのでは実体はつかめません。こんな考え方が常識になっているのが、どうも気にくわない。私は逆に都合の悪いものをこそ取るべきだと言いたいくらいなのです。そうしたら、かえってほんとうのいいものがはいってきます。

・どんな文化でも、ほんとうには、その現実に生活している人にしかわからないものですが、わからないけれども、他に普遍的につうじるものがあります。独自性とひろい世界性が同時にあるのです。それが、ほんとうの文化です。ところが残念なことに、近世日本の文化のなかに、そういう普遍性を欠いている、日本人だけにしか味わえない特殊なものが多すぎると思います。これはそのなかにはいっている日本人自身には、なかなかわかりにくいことなのです。

・芸術は創造です。これは、けっして既成の型を写したり、同じことをくり返してはならないものです。他人のものはもちろんですし、たとえ自分自身の仕事でも、二度とくり返してはならない。

・芸ごとはどうでしょうか。これは芸術とは正反対です。つねに古い型を受け継ぎ、それをみがきにみがいて達するものなのです。

・描かなければならない真の絵とはなんだろう。いったい絵画とはなんぞや、という問題になった。そういうことを自分の責任において、とことんまでつっこみ、社会、人類に対して、これだという一つの答えを出さなければ絵が描けない。

・いわばお先まっくら、自分の前にはなにもないのです。虚無と対決して、自分の力で新しく創造してゆく、たいへん苦しいけれども、生きがいとして、全精神的にぶつからなければならない問題です。つまり、絵画とはなんぞや、ということです。この苦しみ、この虚無をのりこえて、はじめて、絵画は芸術になったのです。

・芸術の本質は技術であって、芸の本質は技能です。

・技術は、つねに古いものを否定して、新しく創造し、発見してゆくものです。つまり、芸術について説明したのと同じに、革命的ということがその本質なのです。

・好むと好まざるとにかかわらず、技術は人間の歴史を発展させ、考え方を変えてゆくものです。時代の生活感情から美意識まで、技術が徹底的にくつがえすのです。

・きれいなもの、上手なものは、見習い、おぼえることができるが、人間精神の根本からふきあがる感動は、習い、おぼえるものではありません。なるほど、何十年と年季を入れた棟梁の鉋のかけかたは、たしかに見ていても気持ちがよい。プロ野球の名選手のあざやかなプレーは、胸がスッとします。けれども熟練だけのうまい絵というやつは、これはちっともおもしろくないのです。

・私は謙虚というものはそんな、人のまえで、おのれを無にするとか低く見せることでは絶対にない、むしろ自分の責任において、おのれを主張することだと断言します。つまり、謙虚とは権力とか他人にたいしてではなくて、自分自身にたいしてこそ、そうあらねばならないことなのです。

・「自分が、現在、すでにそうである」と言わなければならないのです。現在にないものは永久にない、というのが私の哲学です。逆に言えば、将来あるものならばかならず現在ある。だからこそ私は将来のことでも、現在全責任をもつのです。

・おのれ自身にたいしては逆に残酷に批判的で、つまり謙虚でなければならないのです。日本ではどうもこれをとり違えて、謙虚というのは他人にたいしての身だしなみくらいに思っている。

・いちばん根本の問題は、つねに現実と取りくむことにあるのです。自分とは、直接利害関係もないあちらだけに現実があって、こちらにはなにもないかのようにふるまう、そんな態度からは何ごともはじまりません。われわれにとっての現実はここに、―われわれのところにこそあるのです。

・伝統というものは過去のものだと安心していてはなりません。われわれが現在において新しく作るものです。それはとうぜん過去を否定し、それをのりこえて、つねに創りつづけることです。逆説的に聞こえるかもしれません。しかし、これは論理であり、正しいのです。

 

芸術のあり方、日本の伝統文化のあり方についての違和感が言葉として腹落ちしました。