現在までに受けつがれてきた伝統はイツワリだった。|日本の伝統

岡本太郎さんの著書、2冊目です。こちらも価値観をグワングワンと揺さぶられました。

 

和太鼓をやっている僕としては、非情にショッキングであり、反面、ワクワクもしました。もっともっと、厳しい現実と向き合っていきたいと思います。

 

 

以下、読書メモです。

・日本人くらい、一方に伝統のおもみを受けていながら、しかし生活的にその行方を見うしなっている国民はないでしょう

・だから彼ら流に、アカデミックに伝統を誇示し、強調すればするほど、文化の不幸な分裂はいよいよ深められる。つまりわれわれの伝統がまったくわれわれにとって他人ごとになってしまうのです。

・自分が法隆寺になればよいのです。
失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。

・「裸の王様」という物語をご存じでしょう。あの中で、「なんだ、王様はハダカで歩いてらぁ。」と叫んだ子どもの透明な目。あれをうしなったら大へんです。

・美がふんだんにあるというのに、こちらは退屈し、絶望している。

・しかし、日に絶望し退屈している者こそほんとうの芸術家なんだけれど。

・伝統はわれわれ一ぱん素人のものでなければなりません。特殊な専門家の権威的なおせっかいをすっぱり切りすてるべきです。つまりモーレツに素人であることを決意した人間の手にとりかえさなければならないのです。

・まず冷静に正視する。それは、のりこえる第一の前提です。残酷な、絶望的な現実であるならばこそ、あるがままを認め、そこから出発する決意を持つべきです。すなわち芸術の問題であり伝統にたいする正しい態度だと思います。

・伝統は自分にかかっている。おれによって生かしうるんだ、と言いはなち、新しい価値を現在に創りあげる。伝統はそういうものによってのみたくましく継承されるのです。形式ではない。受け継がれるものは生命力であり、その業―因果律です。

・私はこのような、西欧文化へのコンプレックスとして急ごしらえされた、いわば影のようなつくりものを信じることはできません。それはついに実体を喪失した文化の裏側であるにすぎないのです。

・われわれはいま、過去の日本と同時に西洋の伝統をも、ともども引きうけ、そして克服してゆかなければなないのです。国粋主義者にも、またハイカラにもなる必要はない。歴史上の高度な文化がそれぞれになわされた、運命です。それに打ちかったものが、新しい、巨大な文化の伝統を開くのです。

・われわれが縄文土器のあの原始的なたくましさ、純粋さにふれ、今日瞬間瞬間に失いつつある人間の根源的な情熱を呼びさまし、とりかえすならば、新しい日本の伝統がより豪快不敵な表情をもって受け継がれるのです。そうありたい。

・狩猟期に生きた人間の感覚は、きわめて空間的に構成されているはずです。獲物の気配を察知し、しかも的確にその位置をたしかめ、つかむには、鋭敏な三次元的感覚がいるにちがいない。それにたよって生活した狩猟期の民族が、われわれの想像をはるかに越えた、するどい空間感覚をそなえていたことはとうぜんです。そういう生活なしには縄文土器のあのように的確、精緻な空間のとらえかたは考えられません。

・この弥生式の時代に発生した平面性、シンメトリー(左右均斉)の形式主義、近郊は、以後近世までの封建的農業社会の産物である日本文化を決定的に特色づけています。

・いわゆる日本的形式とか美意識というものが、今日ではもうなんとなく古めかしいのに、時代的にはもっとも遠く離れた、いわば歴史のどんづまりにある、縄文土器の積極性や、空間感覚がかえって今日のわれわれにピンとくる。これはすばらしい。

・空間といっても、すでに今までのような形而上学的な「天」ではない。それは現実に征服されたスペースです。生活的には空間を取りいれる熱情、それにたいする感覚は、とうぜんとぎすまされています。近代芸術における空間性の再発見は、こういう新しい生活の事態から納得できるのです。

・原始時代においては物質的、また精神生活のすべてが宗教によってささえられています。もちろん、あらゆる美観も、ちょうど今日の美形式が、すべて資本主義的生産様式の上に成りたっているように、ここでは宗教的意義を負っているにちがいない。

・人間の本能の深みにひそむ、愛するからこそ憎み、憎むからこそ愛するというアンビヴァランスです。そういう人間生命のギリギリの矛盾、そして、たくましい生命力を今日とかく見うしないがちです。

・この江戸後期以降の、不幸な政策的ゆがみが、今日の日本人のセンスをも決定しているのです。あきらめの味とか、しぶみなど、すべて消極的にくすんだ姿です。今日の権威者たちが、この非本来的な姿をこそ正しい伝統であるようにたたえる。そして芸術意識を官僚的に支配している。まえにもお話したように、ここにわれわれの文化の不幸があるのです。

・論理、非情、純粋。これこそ光琳芸術の本質であり、それゆえにまたスケールの大きさ、世界性を獲得しているゆえんだと思います。

・のびのびと自由に、正しく主張している。堂々と正面からひた押しにして、みじんもゆずらず、逃げない。いわばそういうたくましい時代のピークに光琳があり、その気魄が彼の芸術のゆたかさと気格をささえています。

・古い伝統をたちきって、オリジナリティを創造しようというときには、たとい見なれたものであっても、新しく発見してゆくという感動、そしてその方法を持たなければなりません。

・おのれに富と知性をあたえた時代と、おごる富裕な町人たちを逆説によって嘲罵する気負いは、じつはまた本質的に、おのれ自身の爛熟した感性と、都会人の過剰な自意識にたいする刃でもあったにちがいありません。

・どんな凡人でも、生涯のうちに一度や二度はかならず、おのれ本来の姿を真正面から打ちながめてドキッとすることがあるはずです。そういうことなしには生きがいは考えられません。このような魂の高揚期にこそ、作家はおのれと対決し、それを乗りこえておのれ以上のものとなる。言いかえれば、ほんとうにおのれじしんになりきるのです。これが非情の場です。

・日本の庭がこういう封建的な伝統を続けて固定したのにたいして、はやくから近代化した西洋では、一般市民は高層の集団住宅に住み、貴族の豪壮な庭園を開放して、公園として共同の庭を設備しました。

・現実的な生活感情を御破算にして、歴史のふかみにくぐり、さかのぼっていってみると、はじめて味わいがアリアリとわかってくる、そういう仕掛けなのです。

・それは日本の庭園が、あまりにも絵画的な型にごたわっているからです。つまり、日本庭園の空間のあつかいかたは絵画的遠近法であって、彫刻的な空間性を持ってはいない、ということなのです。

・ほんとうの月ではないが、だから非実在だということはできない。うつっている姿は現実なのです。つまり虚にして実、実にして虚、色即是空、空即是色の真理をそこに顕現しているわけです。

・芸術は根源的な矛盾を秘めています。その緊張した統合のうえでに、強烈な表情をかがやかせるのです。矛盾した要素の対立は芸術の本質であり、根本要素です。とかく、ほどよい趣味とか、好みの洗練と混同されがちですが、芸術はそれとはまったく質と次元を異にしているのです。これを見あやまってはなりません。

・大自然の景観をまっこうから受けいれる。しかもそれを受けとめるために、なにかしなければならないとしたら、小細工はやめて、単純で強靭な手をうつ以外にありません。人間における抽象性、その明快さと単純さこそ大きな自然に対抗して、しかもそれを生かすことのできる形式なのです。

・二つの対立的な空間のあいだを、自然に連続させる森や山つづきなどがあったのではぶちこわしです。それらは、まったく不必要な邪魔物となって、異質な対決をうしなわせ、すべてを素朴で、無感動なままの自然にもどしてしまうからです。

・すでに島国である中に壁をつくる。この問題性放棄と視野のせまさ、イージーな自己満足はまさに「重箱文化」の宿命です。

・人工と自然との、真にたくましく人間的であると同時に、また自然な、二重に強調された緊張、いわば自然的反自然の精神こそ、芸術に美と力を現出させるのです。

・自然によりかかっていたのでは、芸術行為にはならないばかりでなく、自然自体の感動をもうしなわしめてしまうのです。

・なま身でぶつかって、そこから引きだせるものすべて、今日の生活が、そこから取りあげてゆけるものすべてを正しく生かし、再生してゆくべきです。形骸としての過去を容赦なく否定する。そのような創造的ないとなみこそ、じつは本質的に過去と結びつき、正しく伝統を受け継ぐ方法です。

・われわれとしては、つくられた動機いかんにはこだわらず、あくまでも今日の芸術のもっときびしい、高度な立場でそれらにぶつかるべきです。時代時代のそのような対決に堪えぬいたものだけが、伝統として今後にのこされ、受けつがれてゆくのです。

・いわゆる「伝統」は大衆の生活とは無関係、そのもり上がりなしに作り上げられたのです。官僚の選定したものだけが権威的伝統だなんて、そんな屈辱的な、ナンセンスはありません。

・むしろわれわれは、近代文化を生んだ西欧によって育てられている。洋服を着て、電車に乗って暮らしている事実だってそうだし、ものを喋るにしても、その論理のたて方、もののつかまえ方、すべてがそうです。子供の時から教育され、身にそなわった成功近代的なシステムによって、われわれは判断し、生活し、世界感を組み立てているのです。

・ちょうど袋にいっぱいに空気をつめて、口をキュッとしめたように。その締めた口のところが現在の自分です。うんとふくらました中には世界のあらゆる過去の遺産、財産が豊かにとり込まれています。緊密に締めれば締めるほど、中の空気はピューッと、凄い勢いでふき出る。それがつまり創造活動であり、その口のあり方がオリジナリティ、想像の契機なのです。先に言ったような現実のパティキュラリティーは逆に考えれば、その口のあり方の独自性を強烈にプラスする条件です。

・われわれは日本人である。千利休のような審美眼をもち、奥の細道みたいな気分になり、モノノアワレをうち出し、ユーゲンな味をこめ、そういう土台にのっとってひろく世界に通じるような仕事をしようという考えです。袋の方はしぼっておいて、口の方ばっかり広げて見せたりしても、駄目。せいぜいすかした味くらいで、そこからはとうてい猛烈な創造のエネルギーは出てこないのです。
遺産が推進力になるよりも、むしろ呪縛として働いている日本では、これをさかさにひっくり返してしぼり上げていくという、大きな外科的治療が必要です。

 

よくわからない伝統を、僕は守りません。伝統は創るものであって、現在進行形で変わっていくものだからです。